反対を見る。
kenです。
今日は反対と言う存在の大切さについて書きます。
昔から、何か上手くいかない時は、"その反対を見る"ようにしてます。
それは、反対というのは視野を広くしてくれるから。
今は何かと「動」(パフォーマンス)が重視されてる。
これから五輪も控えてるから尚更重視されてる。
そこでよく見落とされるのが反対の「静」と言う存在です。
身体障害を患って生まれてきて、色々な身体障害者を沢山見てきました。
どんなに努力しても、一生を掛けても「正しい」「普通の人」にはなれない人を沢山見て来ました。
身体障害者のほとんどは動こうと思っても「静」でいる存在です。
「動」が正しくて、「静」が悪扱いされると、動けない人は許せないと思う気持ちが膨らみやすくなり、それが悪循環になりやすい。
僕ら(人間)は何かと正しい方を選びたがる。
誰も間違った方に向かいたくないと思うのは至って普通です。
ただ、僕が危惧をするのは、その過程の中で、"反対のものの価値を捨てる"ようになってしまってはいないか。。。と言うこと。
そう、いつの間にか視野が狭くなってしまう。
今は、何かと明るいものを好む傾向が強いと最近感じてます。
裏を返せば、それだけ現実世界が暗いから、、なのかもしれません。
そうですよね。。
元々から現実が明るければ、明るさをわざわざ求める必要なんてない。
夢・希望・愛・情熱が自然と生まれるなら、そういう歌・映画を表現する必要なんてない。
最近流行ってる「自己肯定感」と言うワードを見るたびに「自己否定で苦しむ人がいるから沢山出るんだろうな」と勘ぐってしまいます。
「反対を見る」は別の言い方をすると「正しいと思うものから距離を置く」です。
先日言ったように私の中には、バツとカテゴライズされる要素(病気)が生まれつきあります。
だから、「正しい」という状態には強い憧れが昔からありました。
今思い返すと、これが不幸の始まりでした。
「正しいが良い」と思ってる限り、その人は「間違った状態である私は悪いんだ」と思うようになります。
今までの私はその思考ループをぐるぐるしてたのです。今はマシになりました。
ですが、「正しい=良い」が余りに強すぎると間違った道を選んだ人たちを憎んだり、否定したりする。
何かを憎みはじめたら、ろくなことありません!!(冗談抜きで)そういう人生は地獄です!!(マジ)
だから、今コロナの中で「正しいことは何か!」ばかり探してるのであれば
一旦冷めた目で、反対や「これは間違った意見だ!」と思うものを見る。
これをしてみてください。
ファッション・好みで例えるならば、赤ばっか見てるんだったら、時には青を。
黒色の服ばっか着てるんだったら、白色系を着てみてはいかがでしょうか。
という僕なりの提案です。
・これから僕がやっていくこと
今後、生まれつきの身体障碍である脳性マヒの症状を和らげるため、住んでる街の近くのクリニックで低周波治療と股関節その他足の筋肉のリハビリを医師と相談しつつ、受けに行く予定です。
今日は難しい話をしてしまいました。反省。
リハビリ、テキトーにやります。頑張るの反対の意味を込めて。